ゆるっとTidy

何度でも書き直すタイプ

JとJとVとJ

防弾少年団は3人のラッパーと4人のボーカリストで構成されているグループである。ボーカリストはソクジン、ジミン、テヒョン、ジョングクの4人。いわゆる「ボーカルライン」と呼ばれる4人のうち、最初にBHにやってきたのは誰か。

 

そう、あのワールドワイドハンサムである。

 

1992年12月4日、安養(アニャン)市で生まれ、ソウル南方15kmほどに位置するベッドタウン・果川(クァチョン)市で育ったキム・ソクジン。彼は中学時代、かの有名なSMエンターテインメントのスカウトを「詐欺だと思って断った」という逸話を持つ。ドラマ『善徳女王』に影響を受けて役者を志し、倍率200倍ともいわれる建国大学の映画芸術学部に進学。デビュー後のインタビューでは「大学生の時にイギリスのDaleyというアーティストの音楽を聴き、彼のように歌って多くの人に感動を与えたいと思うようになった」と語っている。

 

 

ソクジンは唯一、スカウトを受けてBHに入所したメンバーである。通学バスから降りたところでBH関係者から声を掛けられ、オーディションを勧められた。「君みたいな顔は見たことがない!」BH関係者には、そう言われたそうだ。歌もダンスも未経験。ナムジュンとも、ユンギとも、ホソクとも、全く違う生き方をしてきたソクジン。彼がBHに入所したのは、2011年6月頃のこと。

 

ちょうど同じ時期の2011年6月3日、また別の人物がBHに入所した。当時13歳、中学2年生。泣く子も黙る防弾の黄金マンネ、チョン・ジョングクである。

 

1997年9月1日、韓国第2の都市・釜山広域市でジョングクは生まれた。彼に歌手という夢を抱かせたのは、BIGBANGのG-DRAGONことジヨンである。彼の楽曲「Heartbreaker」が、そのきっかけとなった。

 

 

幼いジョングクは、韓国のケーブルテレビMnetが主催するオーディション番組「スーパースターK」に応募。番組のシーズン3の予選で脱落し、その様子が放送されることはなかった。が、彼を待っていたのは、7社からのスカウトだった。

 

 

当時、ジョングクに声を掛けたのはJYP、CUBE、FNC、TS、STARSHIP、Woollim、そしてBH。会社の規模で言えばBHが圧倒的に小さい。だが、ジョングクはBHを選んだ。ジョングクのこの時の決断を、メンバーは「神の一手」と語る。

 

ジョングクがBHへの入所を決めた理由は、ナムジュンだ。事務所見学の際に偶然、ナムジュンのラップを聴いた。ジョングクは、そのナムジュンの姿に惹かれたのだ。

『MAP OF THE SOUL:7』の記者懇親会でジョングクが語ったところによれば、BH入所前から既に防弾少年団というチームがいることをネットで見て知っていたようだ。グループ名についても、「メンバーは防弾少年団という名前を恥ずかしがっていたけれど、僕はとても好きだった」と。

 

「建物が大きくて、道路が5車線もあって、すごく大きくて怖かったんです、初めてソウルに来た時。ここで、どうやって自分の力で生きていけばいいんだろうって」

 

 

他の練習生たちが寝静まった後でなければシャワーも浴びれない。歌ってくれと言われば泣いてしまい、歌い始めるのに何分も掛かる。内向的で、人見知りで。そんなジョングクの殻を破り、性格が大きく変わるきっかけとなった人物がBHに入所するのは、その3カ月後のこと。

 

1995年12月30日、ユンギと同じ大邱(テグ)広域市で生まれたテヒョン。両親の仕事の都合により祖父母に育てられ、上京するまでの時期を大邱と居昌(コチャン)で過ごした。父からのアドバイスを受け中学時代にはサックスを習い、短い期間ではあるもののダンススクールに通った経験もあったテヒョン。音楽やダンスに触れる機会はあったようが、もしデビューしていなければ共に暮らしてた祖母のように農業に従事していただろうと、テヒョンは幾度も語っている。そんな彼がBHの目に留まったのは、友人が参加するオーディションに付き添った時のことだった。

 

テヒョンは、ジョングクと同じように入所前から防弾少年団の存在を知っていた。2011年8月、韓国の民放局SBSのニュース番組で防弾少年団の方言ラップ『八道江山』が取り上げられたからだ。

 

 

『八道江山』はもともと、HIT ITオーディションの広報用に作られた曲だ。"八道"は朝鮮半島の行政区画のようなもので、"東北"や"関東"のような地方の括りと捉えれば分かりやすいかもしれない。HIT ITは全国展開していたオーディションであったため、ユンギは大邱の含まれる慶尚道キョンサンド)訛り、ホソクは光州の含まれる全羅道(チョルラド)訛り、そしてソウル近郊で育ったナムジュンは標準語でラップを作ったのだ。

この『八道江山』は同時期に行われた最終オーディションにてナムジュン、ユンギ、ホソクの3人によって披露され、後に1st mini album『O!RUL8,2?』に収録されることになる。

 

 

大邱で行われるオーディションに参加する友人の付き添いとして、テヒョンは会場にいた。帰り際にBH関係者からオーディションを受けるよう声を掛けられ、反対する両親を説得。非公開でオーディションを受け、結果的には大邱オーディション唯一の合格者となった。そんなテヒョンがBHに入所したのは、2011年9月3日のこと。防弾メンバー7人の中で、テヒョンだけが非公開練習生であった。

 

この後、ジミンがBHに入所するまで8カ月ほどあいだが開く。そしてソクジン、テヒョン、ジョングクの入所前後で防弾少年団というグループに大きな変化が訪れる。HIPHOPグループからの方向転換である。

パン・シヒョク氏によれば「ビジネスデータを考慮すると、K-POPアイドルをモデルにした方が理にかなっている」というのがその理由だ。防弾少年団のコンセプトは【ダンスパフォーマンスに重点を置いたアイドルグループ】に変更され、この方向転換によって多くの練習生たちがBHを去った。Dae Nam Hyupの中で残ったのはナムジュンだけ。自身の理想とは大きく外れた方向転換に、ユンギもBHを去るつもりだった。説得を受け思い留まったものの、アイドルとHIPHOPという両極端なふたつの立場のあいだで、二人は悩み、葛藤することになる。

 

【ダンスパフォーマンスに重点を置いたアイドルグループ・防弾少年団】となるために始まった、ナムジュンやユンギにとっては慣れないダンスのレッスン。そんな中で、ついに最後のピースが揃う。

 

1995年10月13日、ジョングクと同じ釜山で生まれ育ったジミンは、中学生の時にダンスを始めた。最初に始めたダンスはポップ(ポッピン)、ロボットダンスをイメージすると分かりやすいかもしれない。優秀であったジミンは全科を含めた首席で釜山高校の舞踊科に入学、BH入所までの約2年、現代舞踊を学んだ。

 

 

剣道やテコンドーといったものだけでなく、マーシャルアーツも学んだ経験のあるジミン。歌手という夢が出来たきっかけは、ソロアーティストのRAINだった。家族全員が彼のファンだったのだ

 

 

周囲に勧められ(教師からの推薦を受け)、釜山で行われるBHのオーディションに参加したジミン。合格を決め、2012年5月15日に上京した。ソウルにやってきたジミンを駅のバス停に迎えに行ったのはホソクであり、この時「ジミンさんですか?」と声を掛けられたことが、ジミンは強く印象に残っているそうだ。

 

こうして7つのピースが全て揃った。

デビューまで、あと1年。

 

RM、SUGA、J-HOPEという奇跡

1994年9月12日、ソウル特別市で生まれた一人の男の子。彼の名はキム・ナムジュン。後にHipHopグループ防弾少年団のリーダーとなる彼は、ソウル北西に位置するベッドタウン、高陽(コヤン)市の一山(イルサン)で育った。

彼がHIPHOPに興味を持ったきっかけはよく知られている。ナムジュンの、いや【RM】のソロアルバム「Indigo」にて夢であったコラボレーションを果たし、ユンギが送る新たなコンテンツ『SUCHWITA』にもゲストで登場したTablo氏の所属する3人組HIPHOPグループ・EPIK HIGHの「Fly」である。

 

 

EPIK HIGHとの出会った当時のナムジュンはまだ小学5年生。10歳、もしくは11歳だ。最初は彼らに関心を持たなかったそうだ。それにも関わらず、その翌年に偶然「Fly」を耳にした時、今度は大きなショックを受けてしまったのだという。シャワーの時にも楽曲を聴き、歌詞を書き出して覚え、自ら手を加えてみることもした。聴いた数、3000~4000。

 

【RunchRanda】の名でアンダーグラウンドの活動を始めたナムジュンは、自身の作ったラップをHIPHOPコミュニティサイトに投稿し始めた。同コミュニティで活動していたメンバーの中にはZICO(Block B)がおり、2008年にはコラボレーション楽曲を制作している。ナムジュン、中学2年生の時のことである。

 

 

ZICOとコラボ翌年の2009年、HIPHOPチーム「Dae Nam Hyup(大南朝鮮ヒップホップ協同組合)」を結成。前回記事で記したようにナムジュンはUntouchableのSleepy氏に見出され、Sleepy氏から連絡を受けたPdogg氏がパン・シヒョク氏にナムジュンのデモテープを渡し、遂に二人は対面する。この子の才能を放っておいてはいけない。そうして、防弾少年団のメンバーを発掘するためのプロジェクトが動き出したのだ。

 

結果的に言えば、Dae Nam Hyupのクルーはそのまま防弾少年団の候補メンバーとなった。メンバーのKidoh、Iron、Marvel.J、i11evn、Kyum2、Supreme Boi、そしてRap Monsterが、防弾少年団のメンバー候補=練習生としてBHに入所したのである。ナムジュンがBHと契約を結んだのは2010年の6月、宿舎へ入ったのは8月14日のことだ。

 

2010年時点で既に、防弾少年団の名で活動するRap MonsterとIronの姿がある。練習生という立場ではあるものの、この段階では、この2名が防弾少年団のメンバーであった。

 

 

そしてパン・シヒョク氏は、同時にHIT ITというオーディションを展開する。このオーディションはナムジュンを含む練習生2名とラップ対決をするという方式であったそうで、そんなところからもナムジュンへの信頼度が窺えてしまったりする。

 

HIT IT オーディション告知

 

このオーディションを2位で通過したのが、SUGAことミン・ユンギである。1位を獲得したのはユンギとラップバトルを行っている人物、Dae Nam Hyupのi11evnだ。

 

 

1993年3月9日、ソウルの東南240kmに位置する都市、大邱(テグ)広域市に生まれたユンギ。彼もまたEPIK HIGHの名をよく挙げるメンバーであるが、HIPHOPというジャンルと出会ったのはEPIK HIGHを知るより前のこと。STONY SKUNKというグループのステージを見に行き、レゲエHIPHOPを好むようになり、EPIK HIGHが出てきたことで本格的にHIPHOPへとハマっていったようである。ラップを書き始めたのもその頃、小学5年生の時だった。

13歳にしてMDMIを学び、地元校に通いながら音楽スタジオでアルバイトし、作曲編曲術を身につけた。録音機材や音響機材の知識も、この時独学で得たものである。編曲作業の傍ら、自身の作ったビートを売っていたというから驚きである。当時は【Gloss】という名義で、大邱を拠点としたHIPHOPグループ「D-Town」に所属、作曲・プロデュースだけでなくラッパーとしても活動を行っていた。

 

 

ユンギが上京したのは高校2年の秋、2010年11月7日。親の反対を押し切ってのことだった。ナムジュンと同じく狎鴎亭(アックジョン)高校に転校し、卒業後の2012年春にグローバルサイバー大学に進学。金銭的な事情により芸術高校への進学を諦めた過去のあるユンギは自身で学費を捻出するため、事務所に隠し配達のアルバイトを始めている。

2020年の末にユンギが休養期間を設けたことがあったが、これは、そのアルバイト中に巻き込まれた交通事故により損傷した左肩の手術を受けるためのものであった。

当時のユンギは事故のことを隠し、練習生仲間には階段から落ちたと説明した。事務所を辞めさせられるかもしれないと考えたからだ。最終的に、ユンギは学費の件も含めて全てを事務所側に打ち明けた。「どうしてもっと早く言わなかったの。早く言ってくれれば助けたのに」こうして、ユンギの負担となっていた学費はBHが持つことになった。

 

パフォーマーとしてのデビューよりも、プロデューサーとしてのデビューを目標としていたユンギ。作業のため、毎日スタジオに籠もりっきりであったという。

 

ユンギの上京からわずか1ヶ月後、2010年12月24日に、彼がソウルへとやって来る。防弾の希望、armyの希望、世界の希望、チョン・ホソクである。

 

1994年2月18日、ソウルの南西270kmに位置する光州(クァンジュ)広域市に生まれたホソク。小学5年生の時の合宿で、特技自慢として踊って見せたのが、ダンスに目覚めるきっかけとなった。友人たちは喜び、ホソクの胸は高鳴った。自分は舞台の上に立つ性質なのかもしれない。アーティストになるという、そんな夢を持った。

ホソクには、BH入所前にオーディションを受けた経験がある。中学3年生時、卒業式を諦めてJYPの6期オーディションに参加、人気賞を獲得している。この時の縁でハ・ソンウン(HOTSHOT、元Wanna Oneと知り合っており、ソンウン氏はその後ホソクやユンギを通じてジミンと交流を深めることになった。

 

ホソクはPLUG IN MUSIC ACADEMYというスクールでダンスを磨いた。元BIGBANGのV.Iことスンリが経営するスクールであり、通称''スンリアカデミー"と呼ばれるこのスクールは多くのアーティストを輩出している。ホソクと同時期に所属していたレッスン生の中にはソンハク(ダンサー、元BIGSTAR)、ヘリン(EXID)、ヒョンウォン(MONSTAX)、ZELO(ラッパー、元B.A.P.)、ジュニ(LADIES' CODE)らが居る。

PLUG IN MUSIC ACADEMY出身の仲間たち

「NEURON」というダンスクルーの創設メンバーであり、【スマイルホヤ】というニックネームを使用していたホソク。ストリートダンサーとして活動していた当時から実力があり、知られた存在であったという。時期は不明だが、友人と出掛けた際にスカウトを受け진향(残響)」というダンスミュージカルの主役としてキャスティングされた経験もある。

 

※JYPオーディション時の映像といわれるものが複数あるが真偽不明

 

才色兼備な彼のヌナについて知らない人は、恐らくarmyにはいない。自身のアパレルブランドを持ち、YouTubeのチャンネル登録者数は200万人超え。防弾メンバーの家族の中で最も知られ、また憧れられる存在といっても過言ではないだろう。

そんなホソクの姉は、昔から頭が良かった。長い留学経験を持つ優秀な姉と、弟であるホソクは幾度となく比較された。姉に対し、嫉妬のような感情を抱いていたこともあったようだ。そしてその悔しさが、ダンスへの情熱を生んだ。情熱が、チャンスを生んだ。誤解して欲しくないのは、ホソクの家族仲はとても良いということ。姉のVlogなどに映り込むホソクは、優しい弟の顔をしている。

 

ホソクのBH入所は、ダンススクールで行われたオーディションがきっかけだと言われている(JYP所属時にパク・ジニョン氏がパク・ヒョンシク氏にホソクを紹介し移籍が決まったとする説があるが、確認が取れていない)。休憩時間となり撮影カメラを残して関係者たちがスタジオから退出した後も、数時間ずっと踊り続けていたホソク。そんな彼の姿を見た関係者たちが、この子は絶対にいけるとホソクの合格を決めた。

 

クリスマスイブに上京したホソクが最初に話した練習生は、ユンギだという。リビングで眠るホソクを心配して声をかけてくれたのだそうだ。また、年末に練習生たちが帰省していく中ひとりソウルに残っていたホソクにユンギは電話を寄越し、更にチキンを持って現れたというリアコ勢が気絶しそうなエピソードがある。当時からSOPEは尊かったのだ。

 

入所後のホソクはボーカル志望でレッスンを受けていた。が、現在の彼は防弾のメインダンサーであり、「ラッパー」である。なぜホソクは、ラッパーへと転向することになったのか。

 

防弾少年団のコンセプトが、ダンスパフォーマンスに重点を置いたアイドルグループへと変更されたことが影響していた。

そもそもパン・シヒョク氏って

私はいつも、彼のことをパンPDもしくはパンさんなどと近所のおじさん親戚のおじさん感覚で呼んでいる。失礼であることこの上ないわけだが、この人のことを私は割と知らない。そんな人って少なからず居るんじゃないかと思っている。私の愛する防弾少年団はこの人の手によって生まれた。ので、防弾のことを整理整頓するには大前提としてこの人のことを知るべきなのではという当たり前の発想に至ったのだ。その発想にたどり着くまでに何年も掛かってしまった。反省はしている。

 

パン・シヒョク氏

시혁

1972年8月9日生まれ。ソウル特別市出身、ソウル大学卒業。

ソウル大学は韓国の最高学府(って呼んで差し支えないよね?)。イギリスの大学評価機関クアクアレリ・シモンズによる調査では最新2023年のランキングで世界29位とのこと。いまいちピンとこないので日本の大学名で調べてみれば東京大学が23位、京都大学が36位。ソウル大、間違いなくとてもレベルの高い大学である。そしてその学校を次席で卒業したのが、ご存知パン・シヒョク氏。

 

すっごい頭良いじゃん……

 

両親からの勧めで音楽の道へ進んだそうだけれど、そのご両親がまず凄いのではないだろうか。音楽を仕事にするのは決して手堅い生き方ではない。実際、ソウル大出身者は政府機関での研究職や医者、大学教授などの道を目指す人が多いのだそうだ。しかしパン・シヒョク氏は、音楽を選んだ。在学中に参加した音楽コンテストで銅賞を受賞。かの有名な(餅ゴリこと)パク・ジニョン氏のスカウトを受け、彼の設立したJYPエンターテインメントにPDとして入所(共同創業者であるとする記事もある)。ここでA&Rやマネジメントなど会社運営に関するノウハウを身につけながら多くの楽曲を手がけ、『god(ジーオーディ-)』という男性5人組グループのプロデュースで成功を収めたそうだ。

 

god(ジーオーディー)

99年にSidusHQ(現iHQ)よりデビュー、2004年にJYP移籍。2014年にiHQ所属で再始動し、現在もグループ活動が続いているK-POP第1世代を代表する存在。それぞれ歌手、俳優、バラエティ番組等でも活躍中。

キム・テウ ユン・ゲサン パク・ジュニョン ソン・ホヨン デニー・アン

 

こちらはリーダーのパク・ジュニョンさんによる防弾モッパンツアー。ソクジンのお兄さんが経営する「押忍!せいろ蒸し」にも訪問し、お兄さんご本人(サムネ左)と対面している。

 

彼らがJYP時代にリリースしたアルバムのクレジットにはパン・シヒョクの名、そしてこの後長く使われることになる「"Hitman" Bang」の名が見られる。この"Hitman"は、godというグループの成功があったからこその名、だそうだ。

 

 

 

2005年、パン・シヒョク氏はJYPエンターテインメントから独立。その理由としてはパク・ジニョン氏が語った「靴下事件」が知られている。

 

※靴下事件…アメリカでの共同生活中、パク・ジニョン氏が靴下を裏返したまま洗濯機に入れたことで洗濯担当のパン・シヒョク氏と口論になったという出来事。あーなんか似たようなケンカ知ってるよね「クオズの餃子事件」とかさ。

 

こうして2005年に設立されたBig Hit Entertainment。このビッヒの第1号アーティストは「K.Will(ケイウィル)」(一次情報にたどり着けていないので「どうやら~らしい」という言葉を前後に添えて)というアーティスト。

 

 

この「左側の胸(왼쪽 가슴)」という楽曲はパン・シヒョク氏がPDを、パク・ジニョン氏が作詞作曲を担当したもの。彼は現在、STARSHIPの所属。BHとの関わりがいつ頃まで続いていたのか、定かではない。

 

2007年にデビューしたのは、現役BHアーティストのイ・ヒョン氏が所属していた「8eight(エイト)」。

ペク・チャン  ジュヒ  イ・ヒョン

 

 

所属”していた”という過去形で表記はしたけれど、彼らは2021年、6年ぶりに再始動している。個々の活動を行いつつグループとしても継続、という感じなのかもしれない。イ・ヒョン氏は自身のYoutubeチャンネルでも防弾のマネージャー体験だったりソンドゥク先生指導によるダンスレッスンを受けたり楽曲カバーだったり、弟愛に溢れた内容を発信してくださっている。ありがたや。

 

2010年には、その2年前にデビューしている「2AM」の、JYPとの共同経営契約を締結。この繋がりをきっかけとして、2AMと防弾の長い交流が始まる。

ジヌン チョグォン チャンミン スロン

 

①MV出演 ソクジン、ユンギ、ホソク、テヒョン、ジョングク

 

②番組出演 ホソク、ジョングク

 

③feat.として参加 ホソク

 

④アドバイスを受ける練習生時代の防弾

 

⑤交流の続くチョグォン氏とホソク

22.10.26 チョグォンInstagramより

 

メンバーの事務所移籍に伴い、2014年以降は個人の活動が続いていた2AM。2021年、7年ぶりに完全体でカムバックしたが、そのアルバムにはパン・シヒョク氏とパク・ジニョン氏の両名が参加している。

 

パン・シヒョク氏 作詞・作曲「近くにいて知らなかった」

 

所属を離れてからも、こうして楽曲の制作を通じて関わり合いが続いていくのは素晴らしいことなんじゃないだろうか。アーティストとして、制作者として、互いに良い関係を築いていたのだろう。

 

そんな、今も活躍を続ける2AMとの契約が結ばれた2010年。防弾の最初の欠片であり核となるあの人が、パン・シヒョク氏と出会う。出会ってしまう。このストーリーはあまりにも有名すぎていちいち記録することもなかろうかと思いつつ、やはりここから防弾が始まったのだから省くわけにはいかない。ので、記す。

 

「Untouchable」という韓国のHIPHOPデュオ。メンバーであるSleepy氏は、アンダーグラウンドクルーのオーディション会場にいた。そこで出会ったのが、当時中学3年生だったキム・ナムジュン。のちのRap Monster/RMである。

D.Action Sleepy

ナムジュンのラップを聴き感銘を受けたSleepy氏が知人の音楽プロデューサーであるPdogg氏に連絡。Pdogg氏を通じて紹介を受けたナムジュンは、BHへ入所することとなった。

余談ではあるが、Sleepy氏は後に『ジャングルの法則』というサバイバルバラティー番組でソクジンと共演し、仲を深めることになる。

 

Pdogg氏

Pdogg氏は言わずと知れた防弾の楽曲プロデューサー。彼はパン・シヒョク氏が運営していたオンラインコミュニティに楽曲を投稿していたという縁からBH所属のプロデューサーとなった

 

LYS(DNA)カムバ時の特番にて、それぞれのメンバーが事務所に入るまでの経緯を再現ドラマのように見せてくれたことがあった。その時のパン・シヒョク氏は「仕方なく引き取ってやったんだ」ぐらいなことを言っていたが、一発でナムジュンの最高に惚れ込んだのは間違いないだろう。私はナムジュンの知人でもなけりゃパン・シヒョク氏の家族でもないが、その点だけは自信を持って言える。多分みんなそうでしょ。

 

ナムジュンに出会ったパン・シヒョク氏はその後もなんやかんやあるのだが(雑)、現在はHYBEへと名を変えた社の取締役会長であり、BIGHIT MUSICというレーベルの代表であり、今も精力的に楽曲制作に携わり、K-POP界の将来について思いを巡らせ様々な行動を起こしている。この人に対してどのような印象を持つかは立場によって(具体的に言うと誰を推してるかによって)異なるだろうが、凄いひとであることは間違いないのだ。弱小も弱小、くしゃみで吹き飛ぶような激弱事務所だったBHを、SM、YG、JYPという3大事務所と肩を並べるまでに成長させた。

このところ買収関連でK-POP界隈をざわつかせているが、彼が言いたいのは「このまんまだとK-POPは衰退するよ」「エンタメに他業種が口つっこむようになったらおしまいだよ」「事務所同士が連携して協力しないといかんよ」的なことのような気がしている。知らんけど。

 

ナムジュンが入所したBH。本来であれば2011年中にデビューする予定だった防弾少年団。そのデビューは、約2年後の2013年6月13日までずれ込むこととなる。