ゆるっとTidy

何度でも書き直すタイプ

RM、SUGA、J-HOPEという奇跡

1994年9月12日、ソウル特別市で生まれた一人の男の子。彼の名はキム・ナムジュン。後にHipHopグループ防弾少年団のリーダーとなる彼は、ソウル北西に位置するベッドタウン、高陽(コヤン)市の一山(イルサン)で育った。

彼がHIPHOPに興味を持ったきっかけはよく知られている。ナムジュンの、いや【RM】のソロアルバム「Indigo」にて夢であったコラボレーションを果たし、ユンギが送る新たなコンテンツ『SUCHWITA』にもゲストで登場したTablo氏の所属する3人組HIPHOPグループ・EPIK HIGHの「Fly」である。

 

 

EPIK HIGHとの出会った当時のナムジュンはまだ小学5年生。10歳、もしくは11歳だ。最初は彼らに関心を持たなかったそうだ。それにも関わらず、その翌年に偶然「Fly」を耳にした時、今度は大きなショックを受けてしまったのだという。シャワーの時にも楽曲を聴き、歌詞を書き出して覚え、自ら手を加えてみることもした。聴いた数、3000~4000。

 

【RunchRanda】の名でアンダーグラウンドの活動を始めたナムジュンは、自身の作ったラップをHIPHOPコミュニティサイトに投稿し始めた。同コミュニティで活動していたメンバーの中にはZICO(Block B)がおり、2008年にはコラボレーション楽曲を制作している。ナムジュン、中学2年生の時のことである。

 

 

ZICOとコラボ翌年の2009年、HIPHOPチーム「Dae Nam Hyup(大南朝鮮ヒップホップ協同組合)」を結成。前回記事で記したようにナムジュンはUntouchableのSleepy氏に見出され、Sleepy氏から連絡を受けたPdogg氏がパン・シヒョク氏にナムジュンのデモテープを渡し、遂に二人は対面する。この子の才能を放っておいてはいけない。そうして、防弾少年団のメンバーを発掘するためのプロジェクトが動き出したのだ。

 

結果的に言えば、Dae Nam Hyupのクルーはそのまま防弾少年団の候補メンバーとなった。メンバーのKidoh、Iron、Marvel.J、i11evn、Kyum2、Supreme Boi、そしてRap Monsterが、防弾少年団のメンバー候補=練習生としてBHに入所したのである。ナムジュンがBHと契約を結んだのは2010年の6月、宿舎へ入ったのは8月14日のことだ。

 

2010年時点で既に、防弾少年団の名で活動するRap MonsterとIronの姿がある。練習生という立場ではあるものの、この段階では、この2名が防弾少年団のメンバーであった。

 

 

そしてパン・シヒョク氏は、同時にHIT ITというオーディションを展開する。このオーディションはナムジュンを含む練習生2名とラップ対決をするという方式であったそうで、そんなところからもナムジュンへの信頼度が窺えてしまったりする。

 

HIT IT オーディション告知

 

このオーディションを2位で通過したのが、SUGAことミン・ユンギである。1位を獲得したのはユンギとラップバトルを行っている人物、Dae Nam Hyupのi11evnだ。

 

 

1993年3月9日、ソウルの東南240kmに位置する都市、大邱(テグ)広域市に生まれたユンギ。彼もまたEPIK HIGHの名をよく挙げるメンバーであるが、HIPHOPというジャンルと出会ったのはEPIK HIGHを知るより前のこと。STONY SKUNKというグループのステージを見に行き、レゲエHIPHOPを好むようになり、EPIK HIGHが出てきたことで本格的にHIPHOPへとハマっていったようである。ラップを書き始めたのもその頃、小学5年生の時だった。

13歳にしてMDMIを学び、地元校に通いながら音楽スタジオでアルバイトし、作曲編曲術を身につけた。録音機材や音響機材の知識も、この時独学で得たものである。編曲作業の傍ら、自身の作ったビートを売っていたというから驚きである。当時は【Gloss】という名義で、大邱を拠点としたHIPHOPグループ「D-Town」に所属、作曲・プロデュースだけでなくラッパーとしても活動を行っていた。

 

 

ユンギが上京したのは高校2年の秋、2010年11月7日。親の反対を押し切ってのことだった。ナムジュンと同じく狎鴎亭(アックジョン)高校に転校し、卒業後の2012年春にグローバルサイバー大学に進学。金銭的な事情により芸術高校への進学を諦めた過去のあるユンギは自身で学費を捻出するため、事務所に隠し配達のアルバイトを始めている。

2020年の末にユンギが休養期間を設けたことがあったが、これは、そのアルバイト中に巻き込まれた交通事故により損傷した左肩の手術を受けるためのものであった。

当時のユンギは事故のことを隠し、練習生仲間には階段から落ちたと説明した。事務所を辞めさせられるかもしれないと考えたからだ。最終的に、ユンギは学費の件も含めて全てを事務所側に打ち明けた。「どうしてもっと早く言わなかったの。早く言ってくれれば助けたのに」こうして、ユンギの負担となっていた学費はBHが持つことになった。

 

パフォーマーとしてのデビューよりも、プロデューサーとしてのデビューを目標としていたユンギ。作業のため、毎日スタジオに籠もりっきりであったという。

 

ユンギの上京からわずか1ヶ月後、2010年12月24日に、彼がソウルへとやって来る。防弾の希望、armyの希望、世界の希望、チョン・ホソクである。

 

1994年2月18日、ソウルの南西270kmに位置する光州(クァンジュ)広域市に生まれたホソク。小学5年生の時の合宿で、特技自慢として踊って見せたのが、ダンスに目覚めるきっかけとなった。友人たちは喜び、ホソクの胸は高鳴った。自分は舞台の上に立つ性質なのかもしれない。アーティストになるという、そんな夢を持った。

ホソクには、BH入所前にオーディションを受けた経験がある。中学3年生時、卒業式を諦めてJYPの6期オーディションに参加、人気賞を獲得している。この時の縁でハ・ソンウン(HOTSHOT、元Wanna Oneと知り合っており、ソンウン氏はその後ホソクやユンギを通じてジミンと交流を深めることになった。

 

ホソクはPLUG IN MUSIC ACADEMYというスクールでダンスを磨いた。元BIGBANGのV.Iことスンリが経営するスクールであり、通称''スンリアカデミー"と呼ばれるこのスクールは多くのアーティストを輩出している。ホソクと同時期に所属していたレッスン生の中にはソンハク(ダンサー、元BIGSTAR)、ヘリン(EXID)、ヒョンウォン(MONSTAX)、ZELO(ラッパー、元B.A.P.)、ジュニ(LADIES' CODE)らが居る。

PLUG IN MUSIC ACADEMY出身の仲間たち

「NEURON」というダンスクルーの創設メンバーであり、【スマイルホヤ】というニックネームを使用していたホソク。ストリートダンサーとして活動していた当時から実力があり、知られた存在であったという。時期は不明だが、友人と出掛けた際にスカウトを受け진향(残響)」というダンスミュージカルの主役としてキャスティングされた経験もある。

 

※JYPオーディション時の映像といわれるものが複数あるが真偽不明

 

才色兼備な彼のヌナについて知らない人は、恐らくarmyにはいない。自身のアパレルブランドを持ち、YouTubeのチャンネル登録者数は200万人超え。防弾メンバーの家族の中で最も知られ、また憧れられる存在といっても過言ではないだろう。

そんなホソクの姉は、昔から頭が良かった。長い留学経験を持つ優秀な姉と、弟であるホソクは幾度となく比較された。姉に対し、嫉妬のような感情を抱いていたこともあったようだ。そしてその悔しさが、ダンスへの情熱を生んだ。情熱が、チャンスを生んだ。誤解して欲しくないのは、ホソクの家族仲はとても良いということ。姉のVlogなどに映り込むホソクは、優しい弟の顔をしている。

 

ホソクのBH入所は、ダンススクールで行われたオーディションがきっかけだと言われている(JYP所属時にパク・ジニョン氏がパク・ヒョンシク氏にホソクを紹介し移籍が決まったとする説があるが、確認が取れていない)。休憩時間となり撮影カメラを残して関係者たちがスタジオから退出した後も、数時間ずっと踊り続けていたホソク。そんな彼の姿を見た関係者たちが、この子は絶対にいけるとホソクの合格を決めた。

 

クリスマスイブに上京したホソクが最初に話した練習生は、ユンギだという。リビングで眠るホソクを心配して声をかけてくれたのだそうだ。また、年末に練習生たちが帰省していく中ひとりソウルに残っていたホソクにユンギは電話を寄越し、更にチキンを持って現れたというリアコ勢が気絶しそうなエピソードがある。当時からSOPEは尊かったのだ。

 

入所後のホソクはボーカル志望でレッスンを受けていた。が、現在の彼は防弾のメインダンサーであり、「ラッパー」である。なぜホソクは、ラッパーへと転向することになったのか。

 

防弾少年団のコンセプトが、ダンスパフォーマンスに重点を置いたアイドルグループへと変更されたことが影響していた。